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サークルメンバー記

​身体を考える

トレーニングをして何を実現したいのか

そもそもの話になるが、身体を鍛えるためにトレーニングを積んで何をしたいのかという問題がある。どうも、そのあたりを考えずに、トレーニングを積んだら”何かが良くなる”と思っている人は多い。

目的と手段

本来、目的(やりたい事)のためにトレーニング(手段)があり、やりたい事が不明確なままトレーニングに取り組んでも、それは学校の勉強や資格取得と同じで実際(現場)と何が関係あるのかということになる。この場合、知識を得たら自分のやりたい事と何かが関係するという思い込みがあるので、結局、そのやりたい事と繋げる作業が必要だ。しかし、ここには大きな落とし穴がある。一生懸命に手段を追いかけている内に目的と手段が入れ替わってしまうことがあるのだ。そうなってしまうと、幾ら手段であるトレーニングを積んだところで、目的(全体像)を達成することは難しくなる。しかし、こういった事もある。それは、最初はその目的を達成したかったのだが、手段に取り組んでいる内に、目的を達成することよりも手段に取り組むことが目的となってしまうことだ。これはもうお分かりの通り、目的を”追いかけ続けている”事がしたいのだ。目的を達成したいのでは無く、それを追いかけている、それがしたいのだ。となると、そのやりたい事を本当はやりたくなかったということである。となると、一番最初に”やりたい”と欲求した自分を裏切ることになり、その時の自分を裏切ったのは、誰でも無い”自分”なのだ。それで良ければ、他人がとやかく言う問題では無いから、勝手にやっておけば良いのだが、もし、その目的を達成させたいのであれば、思考と実際が分裂しているということ理解する事が入口となる。

全体と部分

何事もそうだが、まずは、全体像があり、その中に部分にがある。例えば、自動車というものがある。ガソリンで動く自動車が発明されたのが1870年だそうだ。この自動車が世に誕生していなかった時代、移動手段として道を走る箱を作りたいと願った人がいる。そのイメージが最初に作られた自動車の全体イメージだ。その全体イメージを成立させるために、その全体イメージを構造的に分解して部分を取り出していく。自動車で言えば形やパーツだろう。イメージした自動車を作るには、多くのパーツが必要だと考えていけるだろうし、そのパーツ同士の形や機能の組み合わせ等なども構造的に考えていけるだろう。つまり、部分を考えてるということは、すでに全体としての各部分の関係性ありきでおこなっているのだ。全体を捉えずに、思いつきで部分(と思ってること)に取り組んだところで全体には成り得ないということはお分かり頂けるだろう。

このことを自身の取り組み方に置き換えて考えてみれば、目的と手段、全体と部分という構造が具体的に見えてくる。しかし、どうも自身のことになると”気分”が入り込んできてしまい、そのように考えることが出来なくなってしまいやすい。やりたい事を実現するために手段があるのだが、大方は手段により目的が達成されると信じている。そして、部分の積み重ねが、完成イメージの無い完成に辿り着くと信じている。これは、俗に言うフワフワした状態である。何かを実現させるということは、自分が何をしたいのかを明らかにするという側面もあるのだ。

どこから始めるのか

まだ何も始まっていないのだから、全体イメージなんて分かる訳無いと言う人はどう取り組んだら良いのだろうか。それは簡単だ。7割くらいの頑張りで出来る範囲のことから始めれば良い。人は、あらゆる物事を自分のレベルでしか認識できないという特性があるのだから、周りの人からしたらどんなにレベルの低いことやくだらないことであっても、まずは自分がやってみたいと思える目標が、その人にとっての現在のレベルで目指せる最高レベルのイメージだ。例えば、腕立て伏せを10回とか、自重で懸垂をしないとトレーニングにならないと思う必要は全く無い。運動習慣が無い人は、毎日5秒だけ壁に腕を伸ばしてもたれ掛かることから始めれば良い。そんな感じで考えてみると、雑誌やテレビ、ネットで1日何回やりましょうと言っていることを鵜呑みにしない方が良い。参考にするのは、回数とか時間では無く、その動き方やカタチだけだ。このように考えてみても良いかもしれない。足し算が出来ない小学1年生が、掛け算や割り算を出来ないからといって足し算の勉強ばかりしていて、それが勉強になっていないと言えるだろうか。小学3年生あたりからしたら、それは勉強とは言えないくらい簡単で当たり前のことかもしれないが、小学1年生にとっては掛け算や割り算に繋がっていく大事な基礎を固めている段階だ。周りが自重で懸垂をしているのに、自分は斜め懸垂5回すら怪しくても心配することは無い。周りの人が馬鹿にしてきても放っておけば良い。一番、大事な基礎を積み重ねていると思えば、あなたも段階を追って自重で懸垂が出来るようになるだろう。決して、人のペースに合わせてはいけない。無理して、それをこなしても楽しくなくなってきて続かなくなる。毎回、100%の頑張りで挑んでも続かなくなるくらいなら、7割くらいの頑張りで楽しみ余裕も持ちながら続けた方が目標を達成できる。そして、小さくても良いから自分にとっての目標達成を重ねていくことで、レベルも上がり、より高いレベルの目標を現実的に持てるようなるのだ。夢が現実になる瞬間でもある。

目標を目指す環境と障害

上記のように考えて思う存分、目標を達成するために障害となるのが、常識ぶる人達の存在だ。ここで再確認したい。あなたの身体の条件(レベル)は他者とは違う。もっと言えば、同じレベルの人など存在しない。と言うことから考えてみれば、常識という平均点を振りかざす人の存在は、居るだけで邪魔だ。どういうことか分からない人もいると思うので、例えて話してみよう。懸垂をするときに肩甲骨をロックして(固めて)行うのが一般的であり、どうやら背中に効かせるためには必要なことらしい。しかし、それを言う本人の懸垂を見ていると肩甲骨はよく動いている。その人の実感を”肩甲骨をロックする”という一般的に使われている言葉を当てはめて言っているだけであり、自分の実感を他者に伝えるために考えた結果の言葉では無い。つまり、その人は自分が”何をしているのか”について考えずに、何となく近しい”言葉”をセレクトしただけであり、本当のところはどのようになっているのかをより具体的にあなたに教える気は無いということだ。あなたは、そのことを理解していないと、指導者の身勝手な言葉に振り回されることになる。もちろん、それを見抜けるのかどうかということも目標を達成するためには必要なことである。

”誰でも出来る”といったマニュアル的な方法論では無く、それをおこなう人にとっての次の一歩を一緒に探せる仲間がいるとレベルアップは早い。その動きが出来なかったり、怪我をしてしまうことには必ず原因がある。もちろん、ある動きが出来るということにも原因がある。その因果関係をよく考えずに、「これをやれば、こうなるよ」と世間一般で言われているようなことを幾ら積み重ねようが、出来る人は出来るようになって、出来ない人はずっと出来ないというごく当たり前の結果となる。そのように物事を見ていくと理解していただけると思うが、出来るようにするのは自分自身である。幾ら先生や指導者といっても、その人の言う事を鵜呑みにしていてはいけない。他者の言葉は、どこまでもん参考情報としか利用価値は無く、自分が出来るようにするために、その参考情報を手掛かりに探すしか無い。これは、”自立”そのものでは無いかと思う。

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