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コラム

(毎月1日頃更新)

2019.11

本気の向こう側

前回、足元など気にせずに「背伸びしろ」という話をしましたので、今回は“背伸びする”とはどういうことなのかを考えてみます。

 

 

多くの人は、どうしても失敗したくないようです。しかし、ごく一部の人は失敗を恐れずに行動を繰り返し、失敗しても行動をやめずに成功を目指し続ける人もいます。

 

 

では、なぜ多くの人は失敗をしたくないのか。それには様々な理由があるでしょうが、共通しているのは“失敗すると、恥をかいて(自分が)どうにかなってしまう”と思い込んでいることです。

 

 

つまり、失敗をしたら「周りに迷惑をかける」、「お金がなくなる」、「取り返しがつかなくなる」などということで頭が一杯なのです。しかし、これについてもよく考えなければなりません。

 

 

失敗するには行動が必要です。行動があるから失敗があるのです。

 

失敗を想像してしまうのは、行動しようとしたからです。行動しようと思ったのは、それをしたいという欲求があったからです。つまり、“自分がそれをしたかった。“という事実です。

 

 

しかし、多くの人がその事実を真っ向から否定して、失敗のイメージばかりを考えてしまいます。自分の根源的な欲求に対して、真逆の“行動しないための理由”を一生懸命に頭が製造しているという構図です。

 

自分を自分が否定しながら生きているのが、その実際です。

 

 

失敗のイメージを考えながらも、なんとか行動したとします。しかし、頭の中では失敗のイメージを持ちながら行動しているので、少なからずその失敗のイメージを引き寄せてしまう行動が入り込んできます。達成するための行動をしているのに、その成果に対して100%真っ直ぐに自分が向いていなければ、とても効率が悪くなり、3日で達成できるところを一週間かかってしまうようなものです。これは無意識にそうなってしまいます。

 

 

この思考パターンが習慣化されている人は、どんどん小さくまとまっていきます。まとまるならまだマシですが、大抵は小さくバラバラになって、右と左の繋がり、前後関係を認識できなくなっていきます。物分りが良く小利口な人の特徴です。

 

 

この壁を越えていくには、“本気になる”以外にありません。

 

しかし、このことの難しさは、「本気になろう。」と思っているそれは、自分の頭の中でコントロール出来る範囲のそれです。残念ながら、実際としての“本気”ではありません。

 

 

自分がコントロール出来る範囲の外側に出ていき、無理やり能力を引き出してもらうのです。

 

つまり、”本気“の定義はこうです。

 

“コントロール出来ないことをコントロール出来るように全身全霊で向かっている状態“です。

 

 

自分が“本気”だと思っているそれの向こう側、それがキーワードです。

 

と考えた場合、あなたは“本気”になったことがありますか?

 

“本気”の人にブレーキを掛けていないですか?

2019.10

足元はどうでも良いから背伸びしろ

「足元を見失うな」とは昔からよく聞く言葉です。

 

私も幼い頃から聞いていたので、自分を戒める言葉として「足元を見失わないように」を持ち続けていました。しかし最近は、そのことについて疑問を持っています。

 

 

ここで言う“足元”とは、様々なことにおける”基本“とされるようなことを指しているようです。

 

例えば、

①「あるスポーツの動作をするための基礎体力」

②「仕事における雑務(下積み)」

③「生きていくために最低限必要な収入」

④「自分を育ててくれた親を大切に」など様々なことにおける“基本”みたいな事です。

 

 

それって本当かなと思うのです。

 

と言うのも、

 

①は、基礎体力など無くても出来る人は出来ますし、そもそも基礎体力とは何なのか誰も分かりません。例えば、マッスルアップを行うためには懸垂10回は出来るようと一般的に言われていますが、まともに懸垂3回位しか出来ない人でもマッスルアップをやっている人もいれば、フルレンジ懸垂15回おこなえてもマッスルアップは出来る気がしない人もいます。

 

②では、私自身の話になりますが、勤めている会社において当時としては若くしてチームを任される立場になりました。しかし、試験で合格すればそのポストを手に入れられるため、それまでまともに仕事(下積み)をしてこなかった私は右も左も分かりませんでしたが、その立場なりに背伸びをしながら十分に成果を出すことが出来ました。それまで下積みをしてこなかった私が、現場で下積みをする立場の人たちから感謝されたのです。

 

③については、必要な金額など人それぞれです。

 

④も③と同じで、“大切に”の定義も人それぞれなので、人によっては誰かの“大切に”に対して「粗末にしている」と思うかもしれません。

 

ここで挙げたこと以外にも様々な場面で“足元”は存在します。

 

これらのことに共通しているのが、見失ってはいけない“足元”と言うものは“人それぞれ”です。

 

と言うことは、 上記のように“足元”とは何かを設定すること自体が意味を成しません。

 

 

そして、この「足元を見失うな」と言う言葉は、文字通り足元を見ながら歩を進める事を要求します。

 

実際に、そのようにして歩いてみてください。前を向いて歩くよりも疲れるし、遅いはずです。

 

それで実際に足がつまづかないかと言えば、そういう訳でもありませんね。

 

 

逆に、背筋を伸ばして、つまり背伸びして進みたい方向を真っ直ぐに見て歩いてみてください。

 

楽に早くグングンと進めますし、気持ちも乗ってくることを実感できることでしょう。

 

これまでの過去(足元)を見ながら歩むか、それとも、これからの未来(進む方向)を見て歩むかによって生きている次元が全く違ってきます。

 

すぐ隣にいる人でも次元が違うのであれば、一緒に居るようで一緒に居られていない状態です。いずれにしても、人生は進みます。

 

2019.9

前提条件を疑う

台風の季節になり、雨が降る日が増えてきています。

諸事情により雨避けになっているジムの庇テントの撤去が決まりました。

 

雨の日だけではなく、暑い日などにも多くの人の待ち合わせ場所として使って頂いていたので残念です。

 

しかし、テントを撤去したらどんな人の流れになるのか楽しみでもあります。

 

 

「テントが撤去されたら雨の日とかに困る」とつい思うこの事について、ふと気が付いたことがあります。

 

これまで、自動車でジムまで来てテントの下に駐車して、雨に濡れることなくジムに出入りできました。

更に、夏の暑い日差しの日などは、テントによって日差しが遮られて熱気がジム内に入ってこなかった等とこれまでも分からなかったことを言い出す始末です。

 

 

「雨に濡れなかった」とか「多くの人が雨やどりしていた」ことは事実だったとしても、「テントが無ければ熱気がジム内に入ってくる」というのは、この期に及んで出てきた発想です。

 

それは、“現在の状態が変わると困る”ということで、有りもしなかった事実が作り出された瞬間でした。

 

 

何故そのようになってしまうのか。

 

私たち人間は、現在の状況を受け入れる為に、その状況に見合う“前提条件”を無意識に構築しているということを発見しました。

 

もっと言えば、その行為をしている自分を肯定するためには前提条件が必要ということになります。

 

そして、このことは無意識下においてもそうであるということです。この場合、思い込みとか刷り込みがその“前提条件”となります。

 

 

例えば、格好良い体になりたくてトレーニングをしている人の前提条件は、良い体になれば他者からの評価が上がり、生きていく上で有利になるという風なことです。

 

この”何かの行為をするために必要な前提条件は、頭で考えていようが直感的に行動しようが必ず付いて回る“という事実から世の中を見ていると、「その前提条件にしがみつく必要あるか?」というような事ばかりです。

 

 

家庭を持つ、子供を産む、家を買う、貯金をする、健康のために運動をする等の全てのことが、それぞれの前提条件の上に成り立っており、もしその前提条件が丸っきり逆になったらどうするのかと心配になってしまいます。

 

時代はインターネット社会になってから久しいです。昔は、“大事な事を伝えるには会って話す“ことが常識でした。しかし、今では大事な事でもLINEで伝達する人がかなり多くなってきています。

 

 

前提条件が昔とは違うからです。このように時代によって、場所によって変わってしまう前提条件を私たちは生きているということでもあります。

 

 

私たちの生活はインターネットによって丸っきり変わってしまいました。

 

今後も加速度的に前提条件が変化していくことでしょう。その中で、既存の前提条件にしがみ付いていると、そのうちコンビニで買い物も出来なくなるかもしれません。

 

自分の身の回りのことに対する、自身の前提条件を考えることが出来なければ、時代に翻弄されて不自由になっていくかもしれません。

2019.8

答えを先に知ってしまうと​

梅雨が明けて、例年よりも遅めの夏がやってきました。

 

今年はジワジワと暑くならず一気に暑くなった印象で、梅雨明けのタイミングで体調を崩した方も多いのではないでしょうか。

 

昨年の夏の思い出と言えば、世界一になった”WORLD PULL UP DAY in YOKOHAMA”の準備で東奔西走していたことです。

 

そんなイベントの準備中もトレーニングは欠かさなかったのですが、そのトレーニングの記憶がほとんどありません。

 

そして、そんなイベントを“やりたい”と思ったその感情も覚えていません。

 

 

記憶に残っているのは、“受け入れられるハズの無い相手に会いに行くのが大変だな”ということばかりです。

 

記憶というのが単に“記録”ということであれば、全ての出来事が残っているハズですし、少なくとも私のように“私にとって当たり前”であるトレーニングやワクワクした感情が残らず、自分がやらなくても良いことばかりが残っているということは無いのではと思います。

 

 

なぜ、“自分がやらなくても良いこと”と言い切れるのかは、イベントが終わった後、イベント成功に対して結果的に全く関係が無かったからです。

 

 

世界一になったことに、“嫌な記憶が残っている”ことが全く関係が無かったのです。

 

そのお陰で、そのイベントを成功させるために“必要なことと、無駄なこと”の分別が付きました。

 

この行動を通して分別が付くようになったのです。

 

 

この一連のことを考えると、何かに取り組む際、まずは“分別が付かない自分”という認識を持てるかどうかが分かれ道になるのでは無いかという仮説を立てました。

 

 

多くの方が、最初に分別が付けて取り組もうとしているがために、私の記憶に残らなかったような“トレーニング(私にとって当たり前の)”や“やりたい(と思った感情)”からどんどん自分を遠ざけてしまっています。

 

 

結果、“やってもいないのに分かったような気になる“という状態になります。

 

これは負の連鎖を生みます。

 

例えば、自分の子供や後輩に対して、気付かないウチに“やらせてもいないのに答えを先に教えてしまう”からです。

 

 

答えを先に“知ってしまった”人は、余程、自分自身に対して危機感を持っていなければ、“やってもいないのに分かったような気になる”人になってしまいます。それが人間です。

 

 

ハタから見たときに、どういう結果になるかが見えていても、その行動を通して”その人自身だけの答えをその人自身が発見する“ことを応援する環境が大切ですね。

 

そのことが前提にあるから、自分の人生を生きられるということであり、自分と他者は違う生き物であることを知っていく実際です。

2019.7​

何を求めるかによって、できることは違う

毎日のように雨が降り、蒸して鬱陶しい日が続いています。

最近、クロスバイクを購入したのですが、雨が降る日は乗らないようにしているので梅雨が明けるのを楽しみにしています。

 

先日、ダンサーの方にトレーニング指導をしました。

 

懸垂動作を指導しましたら、そのダンサーから「これまでやっていたことは間違っていた。正しい動きをダンスに例えると○○と同じか?」といったご自身の普段やっていることと照らし合わせた質問をしていました。

 

ここが大きな分かれ道です。

 

 

このダンサーは、自分が“現在取り組んでいること”があり、その取り組んでいることに対する”課題“を持っているから、こういった質問が出てきたのです。

 

そういった“現在取り組んでいること”と“課題”が無い人からは大抵、「これをやったら何に効くのですか?」というような質問がされます。

 

しかし、この質問はおかしいのです。

 

本来、自分が何か目的があってトレーニングを教えてもらいに来ているのですが、自分では無い他人にその目的は何なのかと尋ねているからです。

 

残念ながら、その人にとっての目的まで指導することは出来ませんし、指導したところでその人はこちらの言うことを聞かないでしょう。

 

なぜなら、その人にとっての“目的”とは、他人には絶対に触れられないものだからです。

 

目的とは、その人の行動の羅針盤のようなもので、思想や美意識、思考の仕方などあらゆるものが複雑に絡みあって構成されている全人格的なものです。

 

 

例えば、「あなたは健康になるべきです。」というように、自分がどういう目的意識を持つべきかを他人に言われたところで、その“健康”について解釈するのは自分です。

 

120歳まで生きながらえるようなことを健康と思っているのか、それとも、スポーツを達者に出来ることを健康と思っているのか、はたまた、歳を重ねてもどこも痛みなく不自由が無い身体を健康と思うのかは、人によって違います。

 

 

つまり、自分がどういう目的を持てば良いのかを誰かに聞いても、結局、それを解釈しているのが自分である以上、他人に触れられるものでは無く、自分だけの問題なのです。

 

それぞれがそれぞれのレベルで持つ目的意識の違いが、その人の得られる結果の違いとも言えます。

 

資格を取れば仕事が出来ると思う人と、仕事を通じて必要に駆られて資格を取る人では、仕事の出来不出来が全く違います。

 

自分が何を求めるのか、自分がどうなりたいのかを自分で分からないと言う人は、他人に自分の事(目的)を決めてもらい慣れ過ぎていて、自分では自分のことを何も分からなくなっているのです。

 

 

「誰でも出来る!」というキャッチコピーについ反応してしまう人は要注意です。

 

2019.6

やり直せば良い

何もしなくても汗ばむくらいの陽気になってきました。

これから梅雨入りして雨の日が多くなりますが、決して嫌な感じがしないのは、そのことを少しでも楽しめているからでしょうか。

 

いま思えば、子どもの頃は雨が降っても雪が降っても嫌どころか、普段と違うその天気にワクワクして楽しんでいました。私が二十代半ばの頃、ちょっとした小雨に濡れるのも雪の日に道が悪くなるのも、とにかく嫌でした。

いつから、そうなってしまったのか。

 

 

二十代後半になり私の身体が不自由になってから、また自由を取り戻すためにこの事を考えた末にわかった事がありました。

 

私自身が、『少しでも思い通りにいかないことは嫌だ」となっていたのです。

 

 

私は、不自由な身体をまた以前のように自由に動かせるようになりたく、身体そのものに取り組んでいました。

その中で、身体が動くということは精神なのか何なのか得体の知れない“自分”そのものの動きだと気が付きました。

 

 

これだけ読むと「何のこっちゃ」となりますが、筋肉が身体を動かしているのでは無く、“自分”が身体を動かしているということの発見です。

 

例えば、悲しい時に身体を動かそうとしても、重くて力が出ません。逆に、火事場の馬鹿力というように危機の時には凄い力が出て、身体の重さを感じる間も無く動いているでしょう。

 

 

自分が身体を動かしているのは確かですが、その“自分”とは無意識や無自覚、潜在意識をも含めたものであり、頭の中で思い浮かべられることができる表層の顕在意識だけではありません。

 

多くの人が、「自分が思い浮かべた通りにやれる」と思い込んでいますが、そうではありません。

 

例えば、「○○にならないように」と自分が思って行動したとします。

 

それは、○○にならないように避けたいのですが、この事は「○○になる」ことを前提とした行動なので、最終的には○○に近付いて行ってしまいます。

 

 

オトナになると、多くの人がこういった思考にがんじがらめになってしまいます。

 

子どもの頃は、シンプルに「○○」ということすら入り込む隙間が無く、興味に身体が突き動かされて行動しています。

 

子どもは社会における文化的(言葉の使い方を始めとした社会的約束事を達成するべくスキル)な事が身に付いていないので、興味に突き動かされているその姿をオトナが見るとそれは奇異です。

 

そして、子ども達がオトナになっていく過程で、文化的なことを身に付けることと引き換えに興味心を退化させていき、「○○にならないように」という発想しか出来なくなっていきます。

 

 

つまり、社会を生きるツールと引き換えに、“自分”そのものである興味心を失っていくのです。

 

しかし、世の中には興味心を育てていくことで文化的なツールを次から次に身に付けて行き、何歳になっても人生に一切の妥協なく楽しんでいる人がいます。

 

楽しく思っている人では無く、本当に楽しんでいる人です。

 

私も自分がやりたいことを、やりたいように出来ているので楽しんでいると思っていました。しかし、その「楽しんでいると思う」ためには理由や説明が必要でした。子どものようにシンプルに興味に突き動かされているそれとは違うことに気が付きました。

 

どれだけ私の興味心が退化して衰えてしまったのかは私自身は全くわかりません。

理屈や説明ありきでは無い、純粋に“輝く自分”を生きたい。また一からです。

2019.5

環境に合った“自分”になっている

平成が終わり、新時代「令和」となりました。

新しい時代の幕開けに期待している人も多いのではないでしょうか。

 

 

私はと言えば、相も変わらず“身体の面白さ“を発見し続ける毎日を送っていますので、毎日が自分にとっての新時代が来ている感覚です。

 

ちょっとした発見によって、昨日までの身体感覚とは全く違って、楽に大きく早く動けるようになるので、「これまでの自分は何だったのか。」と思わず新時代到来の予感をしてしまいます。

 

私がジムを作った理由は、「身体が動くことについて既存のスポーツ科学や一般的に言われている事は、一定の前提条件があって、誰でもそうなる訳では無い。誰にでも通用する“何か”を求めたい。」を実現させるために、それに没頭できる環境を作りたかったからです。

 

 

これまでの民営ジム通いの生活から一変して、自分がやりたい事をいつでも出来る環境になったことで 朝から晩まで身体のことを考えて実践するようになりました。

 

加速度的に身体への研究が進み、それを求めてくる生徒さんのお陰で更に身体に対する認識を深めていってます。

 

 

このことから、人は環境に合うようになっており、その環境とは物理的なものだけでは無く、精神的な環境が大きく関わっているということです。

 

 

物理的な環境を作れなくても、精神的な環境は自分自身で創り出せます。

 

しかし、それを自分で創り出すための前提として、自分が無意識に創ってしまっている「どうせ自分には」の類を認識することからです。

 

 

よく聞くのが、「家族がいるから」、「歳だから」、「医者に言われているから」などです。

 

 

本当にそうでしょうか?

 

成りたい自分になるために行動しない理由は、本当にそれでしょうか?

 

 

行動を起こしている人はどんな状況でもやっているし、行動を起こせない人はどんなに状況が整っていても行動しません。

 

 

しかし、この事を客観的に観ると、行動を起こせない人は「行動したいと言いながら、絶対に行動しない。」という行動を達成しています。

 

 

やはり、「自分自身が創った精神的な環境に、既に合った自分がいる」ということですね。

 

つまり、皆、理想を実現している成功者と言えます。

 

 

誰が何をしようが、他人は困りませんし、どうでも良い事です。

 

しかし、私はお節介ながらも「あなたは本当にそれで良いの?」と心配してしまいます。

 

 

新しい時代が来るのも来ないのも「どのような環境を創るか」、あなた次第ということになります。

 

 

身体を通して、自分の無意識と向き合ってみませんか。

 

新時代が来ない原因を発見できるかもしれませんよ。

2019.4

やり方が分かっても、“意志”が欠けていたら出来ない

新元号『令和』が発表されて、新しい時代が始まります。

このことで私は、昭和、平成、令和と生きて、“身体の不思議”についての研究をしていることになります。

こう書くと、なんだか大層なことのように思えるから不思議です。

 

 

私は、昔から人に“身体が動くとは”を指導してきましたが、ほとんどの人が“やり方”を教わりに来ます。

 

 

もちろん、身体を動かすために“動きのカタチ”が必要だから、その手順を教えます。

 

そうすると、順調に出来ていく人と余計におかしくなる人とに分かれます。

 

 

おかしくなると言うのは、出来るようにならないだけでは無く、動きがバラバラになっていって習い始めた当初よりどんどん出来なくなる人や身体に痛みが出る人です。

 

 

そういった人たちを診ていると、共通点として、“身体が動く”というその事を勘違いしていることを発見しました。

 

 

その出来ない人たちは、私が教える手順通りに身体を動かします。しかし、運動のカタチとして成立しない。

 

こちらが指示する手順を行う意志はあるのですが、そもそもの“目指す動き”をする意志が抜け落ちていて、その手順通りにやれば“目指す動き”になると思っているのです。

 

 

例えば、部屋の電灯を付けるには、スイッチをONにすると部屋が明るくなります。

 

このような単純なことは手順をなぞれば成立することは実現できます。

 

 

しかし、身体の運動は手順だけでは作り出せません。

 

手順をなぞって実現できるのであれば皆がプロスポーツ選手になれますが、そうでないのは“意志”が抜け落ちているからです。

 

昔、プロレスと空手のどっちが強いのかと言う話があり、今でも、AとBのどちらが良いのかという話はよく聞くところです。

結論を言うと、“強いヤツが強い”となります。

 

 

プロレスと空手に優劣はありません。お互いに別のルール、つまり、別の世界なのですから同じ土俵ではありません。

 

もし、プロレスと空手が戦うのだとしたら、それはプロレスでも空手でもない3つ目のルール(世界)でどちらが強い(生き残る)のかという話であって、そこで試されるのは、それまで培ってきたプロレスや空手の技術も含めた勝つ意志(実現させる意志)です。

 

何か出来るようにするというのは、プロレスと空手の例のように、意志によって(自分にとって)新しい世界の考え方を自分のものにしていくということです。

 

 

それまでの自分の知っていることに固執して新しいことに取り組んでも、新しい手順を知るだけで、その世界のことまでは分かりません。つまり、自分のものにはなりません。

 

 

手順を知りたければ教室に習いに行ったり、今ではインターネットで幾らでもその情報を得ることができます。

 

 

それを自分のものにする意志があるかどうか、“何がなんでも”という意志を持ち続けることこそが、何かを実現させる鍵です。

 

2019.3

“出来た”って何が?

私のワークアウトスタイルは、自体重トレーニングを中心にベンチプレスやバーベルスクワット、ケトルベル、そしてランニングやスイミングなど様々な運動方法を取り入れておこなっています。

 

当たり前の話ですが、色々なことをやっていると色々なことが出来るようになります。

 

 

例えば、ベンチプレスが○○kg上がるようになったとか、腕立て伏せが○○回出来るようになった、ランニングで○ ○km走れるようになったというようなことです。

 

 

何かが出来るようになるのは、もちろん嬉しいことですし、とても喜ばしいことです。

 

しかし、何かが“出来た”ことが自身の成長と言えるのかという問いを持ったことがありますか?

 

 

この問いの前提として、“何をもって成長と言うのか”といった成長そのものをどう考えるのかという、その人自身の物事を考えるレベルによって答えが違ってきます。

 

 

一つ目の例として、「懸垂が自体重で出来なかったのが10回出来るようになったから、これは成長だ。」と考える人は、回数が出来るほど(自分に)力が付いたと考えているでしょう。つまり、“過去よりも力が付いた”から成長したという理屈です。これを他に置き換えて考えてみると、”カッコイイ服を着れば格好良くなる“とか、”お金が貯まれば安心だ“というのと同じです。現象に着目しているということです。

 

二つ目の例としては、「懸垂が自体重で出来ず、出来るのはサポートバンドなどを使って10回で、身体に部分的に無理を掛けずに効率良く、かつ、気持ち良く出来るようになってきており、何年も回数が増えないが、身体に対する感性が磨かれてきていて、運動だけでは無い様々なことにも“考え方”として応用を効かせられるようになってきているので、これは成長だ。」と考える人は、目に見える“回数”や“負荷”、そして“カタチ”などの現象よりも、様々なことに応用できる“要素”、そして、“考え方”に着目しています。

 

 

現象そのものが価値として捉えている人は、きっと“歳を取ると衰える”と考えるでしょう。

 

歳を重ねて出来なくなることを“衰えた”と言うのです。「私は歳だから」と諦める人の典型です。

 

 

しかし、様々なことに応用の効く“要素という考え方の基礎”を身に付けた人は、出来ることが増えれば増えるほどに“出来ない自分”を発見し続け、それに向き合い続ける欲求が生まれ、そのことで自身が歳とともに磨かれて“死ぬまで生き切る”、つまり、生きる活力が湧き上がってきます。

 

 

この二つの例がどういう人生を歩むかは、容易に想像できると思います。

 

 

このように考えると、“出来たかどうか”なんて何の意味もありません。しかし、“出来る”ことを目指しているその過程からしか人生に活かせる“何か”を発見することが出来ません。

 

 

回数や負荷、カタチをが“出来た”と思ったら、“何が”と疑問が湧くようでなければ、いつまで経っても周りの情報に翻弄されて、自分の外から見たステータスだけが自分の価値と捉えてしまいます。

 

 

“何に価値を持てるのか”、そこのレベルアップを図ることが生涯現役を支えることになるのではないでしょうか?

他者から与えられた“遊び”を遊んでいるようでは、手を替え品を替えても心踊るほどの面白さとは出会えません。

 

 

もし、現状に違和感があるならば、自分自身に本気になってください。

 

2019.2

素直に取り組むこと

私はストリートワークアウト横浜と言う団体に参加してワークアウトやイベントをおこなっています。

ストリートワークアウトの基本動作であるプルアップ(懸垂)を、より多くの人に体験していただくために色んなイベントで“プルアップ体験ブース”を出してきました。

 

 

まだ鉄棒にぶら下がることも出来ない0歳児から86歳のおばあちゃんまで、老若男女問わず数千人のプルアップ体験をサポートしてきて気が付いたことがあります。

 

 

それは、“人は、自分がやりたいようにしかやらない”ということです。

 

 

プルアップ体験ブースでの私の役目は大抵、参加者にプルアップのやり方やサポートバンドの使い方を教えたり見本を見せて、万が一にも鉄棒から手を滑らせて落下した際にも事故にならないように安全管理をすることです。

 

 

参加者を見ていると、2つのパターンに分けられます。

 

 

1つ目のパターンは、「懸垂のやり方なんて教わらなくても出来るし、サポートバンドなんか使っているようではダメだ。」という雰囲気で、プルアップの楽しさに出会えない人。

 

 

普段からトレーニングを積んでいたり、昔は身体自慢だったオジサンに多いです。このパターンの人は、力任せにプルアップをおこなうため身体への負担が大きく、プルアップの技術に触れて楽しさを見出すことも無く、「なんだ、コレ!!」と感動することはまず有りませんでした。場合によっては、怪我をしてしまったり、「プルアップは、暫くやらなくても良いや。」という感じになります。

 

 

そして、良いフォームで心地良くプルアップをする人を見たことがありません。勢いと力任せに、どこか無理矢理やっています。そして、その人たちに共通しているのが、「どうだ、これくらい出来るぜ!!」という表情をプルアップが終わった後に見せることです。私たちが伝えたいプルアップは、自己顕示欲を満たすようなものではありませんよ。

 

 

2つ目のパターンは、「1回も出来ないと思うから、教えてもらったことを取りり合えずやります。」という雰囲気で、サポートバンドも積極的に使い、言われた通りにプルアップをおこなうので、それまでのプルアップに対するイメージがガラッと変わって感動する人です。

 

特に、女性や子供、運動に自信が無い男性に多いです。この人たちは、まさか自分がプルアップをするなど夢にも思っていないので“自分のやり方”が無いので、私に言われた通りにサポートバンドを使って良いフォームでプルアップをすることが出来て、しかも、これまで体感したことの無い気持ち良い運動なので、「プルアップは、思っていたよりも面白い!!」となることが多いです。

もちろん、“面白い”や“楽しい”の中身も人それぞれですが。

 

 

私たちは、プルアップの面白さを皆さんに体感して欲しくて“プルアップ体験”をおこなっています。ですが、パターン1のような人に私たちの想いが伝わらないことにジレンマを感じていました。折角、面白いプルアップがただの苦行として捉えられているのですから、実にもったいないことです。

 

 

素直に取り組む方には体感して頂けるのですが、運動習慣が無いのでプルアップを続けてみようとは思いづらいようです。

 

普段からトレーニングを積んでいる方や身体自慢の方には体感されないので、プルアップを取り入れようとは思ってもらえず、自体重トレーニングの面白さを伝えることを難しく思う今日この頃です。

2019.1

平成最後の正月

皆さん、新年明けましておめでとうございます。

今年もより一層、自体重トレーニングに勤しんで参りますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

 

 

と言いながらも、昨年末からベンチプレスを始めまして、自体重トレーニングだけでは無くなってしまいました。

新しい事に取り組むのは楽しいです。これまでやってきた事が通用するのかを試す良い機会だからです。

 

私たちのサークルではトレーニングを通じて“効率の良い身体の使い方“を学んでいきます。その為、自分の体だけで出来る自体重トレーニングもバーベルを扱うベンチプレスも”身体を使う”という点は何も変わりません。

 

 

“身体の使い方“という言葉も巷でよく聞くようになりました。しかし、そこで言われている身体の使い方とは、どうも身体のこなし方を言っているようです。

 

 

その証拠に、「Aという動作を行うための身体の使い方」と言うように動きを限定しています。思わず、「それは、その人が発見したコツだろう!!」とツッコミを入れたくなってしまいます。

 

 

”身体の使い方“と言うものは、そんなHOW TOでは無く、”身体の機能を知っていく実際“です。

 

 

その身体の機能を100%使いきっている人は居ないのではと思います。なぜなら、どんなに凄いアスリートであったり、武道の達人であっても、現在よりも上達する道があるからです。つまり、今の身体の効率性を良くする可能性がある以上、あなたは身体の使い方を磨いていけますし、まだまだ自分の身体を分かっていません。

 

 

効率の良い身体の使い方を発見すると、これまで感じていた足の重さや腰の張り、首肩のコリなどが変化したりします。それまで重いのが当たり前だった自分の身体が、突然軽くなったりします。私はその度に、人生が変わったかのような感動を覚え、大喜びします。

 

 

そんな風に自体重トレーニングを通じて発見してきた事がベンチプレスに通用するのかという問いは、私にとってこれまでの取り組みが肯定されるのか、それとも全否定されるのかを試される一大事でもあります。

 

 

ベンチプレスで全く通用せず初心者と同じようであれば、それはこれまでの発見してきた事に応用性が無いという証明になりますし、ベンチプレスの勘所を掴んでレベルアップのスピードが早ければ少なくともベンチプレスには応用が効くものであると証明されます。

 

 

そんな感じで、普段の生活の中にある動作一つ一つに応用が出来る“身体の使い方”を発見できれば、一気に生活の中での動作が楽になるでしょうし、身体が楽になった分、これまでの無意識レベルでのネガティブな発想が無くなりますので新しい事に取り組む気持ちが湧いたり、楽しくなることに対してブレーキが掛からなくなります。

 

 

本当に身体は面白いです。トレーニングと聞くと、一般的にはどうしても“壊れる”ことを連想してしまうかもしれませんが、“効率の良い身体の使い方を発見する”と考えれば印象も変わってくるでしょう。

 

 

2019年は、ぜひ自体重トレーニングに挑戦してみてください。そして、来年はオリンピック年です。動ける身体で観るスポーツは深い感動を与えてくれます。

 

 

そして、四半期に一度開催される横浜自重祭が2/9に開催されます。

 

このイベントは、自体重トレーニングに取り組む皆さんの目標となるように設計されております。

ぜひ、トライしてみてくださいね。

2018.12

自体重トレーニングの本質

先日、“横浜自重祭”という自体重トレーニングのイベントが開催されました。

普段からトレーニングを行なっている方から運動習慣の無い方まで27祭から73歳までの男女が参加されて、自体重トレーニングを楽しまれました。

 

「自体重トレーニングってナニ?」と思われている方もいらっしゃるかもしれませんのでご説明いたします。

自体重トレーニングとは、腕立て伏せや懸垂、スクワットなどの運動方法です。

 

ダンベルやバーベルを使わずに、やろうと思えば場所を選ばずに行えるもので、フィットネス雑誌”ターザン”でもたびたび紹介されているものです。

 

 

懸垂やディップスと言われる運動は高鉄棒や平行棒が無いと出来ませんが、腕立て伏せやスクワットを一度はやったことがあるのではないでしょうか。その自体重トレーニングを各種目ごとに、“2分間にできるだけ繰り返す”というルールで行われたのが横浜自重祭です。

 

このイベントは、運動習慣を身に付けるためにマラソン大会のような“目標”の一つとして楽しめたらと思い開催されました。横浜自重祭には、“エンジョイ”、“ビースト”という2つのコースがあり、エンジョイは運動に自信の無い方でも競技になるように工夫された種目を用意しています。

 

 

例えば、スクワットが出来ない方でも出来るように、膝が45度曲がったら座れるボックスを用意して、そのボックスに”尻をついては膝を伸ばす“を2分間に何回できるかといった具合です。もちろん、途中でボックスに座っちゃっても良いです。

 

ビーストについては、エンジョイとは違ってオーソドックスなスクワットや腕立て伏せ、懸垂を2分間に出来るだけ繰り返します。なぜ、横浜自重祭にエンジョイを作ったのかというと、自体重トレーニングは簡単なようで皆が皆できるわけでは無いからです。

 

腕立て伏せをやろうと思ったけど1度も出来ないという方は珍しくありません。オーソドックスな腕立て伏せのやり方は、床に伏せて身体を一直線に伸ばして腕を曲げ伸ばしします。

 

 

しかし、このようなやり方で出来るようになるには相当の訓練が必要だったりします。であれば、壁に向かって腕を曲げ伸ばししたり、手を着く高さを工夫して出来るようにすれば、運動習慣として継続しやすいですし、継続していればオーソドックスな腕立て伏せは誰でも出来るようになります。

 

今回、参加された63歳の女性はそうやってオーソドックスな腕立て伏せが無理なく出来るようになりました。そういったトレーニングの組み立て方は大切なことです。無理してトレーニングをしても、継続しなかったり、つまらなくなったり、身体を壊してしまっては何の為にトレーニングをしているのか分かりませんね。

 

 

運動習慣を身に付けるには、“楽しむ”ことが大切で、「◯◯のために」とか「やらなきゃいけないから」と考えて取り組んでも、なかなか習慣化されるまで継続できるものではありません。

 

 

自体重トレーニングの本質は、“楽しんでトレーニングするために工夫をする”という考え方にあります。出来る出来ないは二の次で、まずは自分が楽しいと感じるように工夫をすることが大切です。

 

 

3ヶ月に一度開催される横浜自重祭には、自体重トレーニングを楽しむためのヒントが盛り沢山に詰まっていますので、ぜひ一度参加してみてください。詳しくは“横浜時重歳”のWEBサイトでご覧いただけます。

次回は、2月9日です。これを機会に、ぜひ自体重トレーニングに取り組んでみてはいかがでしょうか。

 

2018.11

自分が理解できる範囲で生きている

台風で折れてしまった軒先テントの柱を、次の台風に備えて業者さんに立ててもらい、さらに補強してもらったのですが、駐車している車の助手席に乗り降りするのに邪魔な位置に補強の骨組みがあるので、結果的に使い勝手が悪くなってしまいました。それにしても凄い台風でした。

9月に開催した“WORLD PULL UP DAY 2018 in YOKOHAMA”の結果が発表されました。

結果は、世界74カ国175会場の中で女性の参加人数が一番になりました。

 

女性の間で“世界一”、懸垂が流行っている都市が横浜です。

と言っても、多くの参加者が行った懸垂は、皆さんがイメージしているサポート無しで鉄棒にぶら下がる懸垂では無くて、サポートバンドを使って行う懸垂でした。

 

どなたでも懸垂を上手に行うことが出来て、段階的に運動強度を上げていけるサポートバンドです。

このサポートバンドを使えば、四十肩や五十肩等で腕が上がらない人でも無理なく懸垂が出来てその症状を改善することが出来ますし、力が無くて懸垂なんて出来るわけが無いと思っている方でも5〜8回は出来ます。

と言うのも、これまで懸垂体験イベントを何度も行ってきましたら、そのサポートバンドを使って懸垂が出来なかった人が一人もいなかったからです。

 

こう言うと、懸垂をする自信が無い人は、“私が、サポートバンドを使っても懸垂が出来ない初めての人になる。”と想像するでしょう。

 

安心してください。大丈夫です。普段、運動習慣が無かったり体重がある人も皆、懸垂体験の参加者はそう思っています。

 

それでも出来なかった人はいないのです。当たり前です。これは感覚的なイメージですが、自分で洋服を着る程度の力があれば“懸垂”が出来るからです。

 

ここが分かれ道でもあります。幾ら、その事を頭で分かっても、実際にやってみるまでは“自分が出来ないだろう”と思って体験することを避けてしまいやすいです。しかし、体験しなければ“自分が出来る”ということを分かりません。

この事は、体験する前は自分が出来ることについて自分で上限を設けていて、体験すると“自分が設けた上限”を越えた現実と出会うということです。言い換えると、“今の自分”が理解できる範囲しか物事を捉える(考える)ことが出来ないということであり、勝手に自分の可能性を決めているということです。

人の特性として、“自分が認識したものしか認識できない”があり、認識できないことについては“認識できないことすら認識できない”があります。そう言った意味も、人はそれぞれが認識しているものが全く違うものです。

 

自分が体験する以外に、その事柄に触れる事は出来ないのであれば、周囲の人たちと意見を合わせることと、自分の体験とは何にも関係が無い事が分かると思います。

懸垂だけではありませんが、まずは体験ありきで物事を考える人と、すなわち、その人の“体験”と出会いたいと思う、今日この頃です。

2018.10

どうにもならないことは、どうしようもない。

先日の台風を凄かったですね。台風の後にジムに来てみると、軒先テントの柱が3本折れて転がっていました。

 

先日、9/22におこなった”WORLD PULL UP DAY 2018 in YOKOHAMA” は、午前中こそ天気が崩れたものの、午後には晴れて結果的に大成功しました。

 

朝から雨が降ったり止んだりを繰り返していました。天気予報では午後からの方が降水確率が高い予報でした。そんな中、屋外会場を撤収して屋内会場に移動するかどうかの判断は難しく焦りもありましたが、「どうにもならないので全体の雰囲気に自らが動かされよう」と、場の流れに身を預けて“待ち”ました。

 

そうしていたら昼過ぎたあたりから雨が弱まり晴れていったのです。決断を急いで屋内会場への移動を決断していたら失敗でした。“身を預けて待つ”という決断をしたことによる奏功事例です。

 

こんな話でも色々なことに置き換えることが出来ます。

 

私は十代の頃に“多くの人が気付いていない身体の機能”の存在を発見した時から、慢性的な痛みなどの怪我について相談を受けてきました。

 

そんな中で多くの人が選択してしまう道が、この“待つ”とは反対の“すぐに”でした。

 

怪我や痛みがどういったプロセスを通って解消されていくかが少なからず見えている私としては経過が良好であっても、本人としては「今すぐ痛みから解消されたい」ために、“すぐに”手術を受けてしまうのです。

 

しかし、ここで考えてみて欲しいのです。

なぜ、そんな状況でも私に相談に来たのか。それは、治る可能性を感じたからでは無いでしょうか?そして、その事は「病院で手術」をしても根本的には治らないことを直感してではないでしょうか?

 

病院での治療は、“対症療法”であり、痛みの末端を取り除くことに目的があります。末端というのは、一番分かりやすい部分のことです。例えば、腰が痛ければ「腰に原因」を見出してブロック注射を打つなどです。

 

しかし、慢性的な痛みのほとんどは、痛い部分をどうにかしても無駄です。これも色々なことが複雑に絡み合っているので、誤解を恐れずに“無駄”と言いますが、身体は全体でバランスを取っています。

 

そのバランスが崩れたことを示しているのが、痛みや違和感といった“症状”なのですが、もっと突っ込んで言うと、“症状”というのは“バランスを整えよう”という動きなのです。つまり、治るためには必要なのが“症状”です。それは自分が変化するためのキッカケです。

 

しかし、病院に行けばまず間違いなく、その“症状”を排除するための処置をします。例えば、「熱がある」といえば解熱剤です。なぜ熱が出るのかと言えば、異状だからでは無く、正常に身体の機能が働いているから“バランスを取るために必要な症状”として熱が出るのです。

 

それを取り除こうとするのだから、身体の機能を働かせないようにしているのと同じです。身体は使わなければ使えなくなっていきます。

 

どうにもならないその“症状”そのものに対して、何とかしようとしても仕方が無いのです。

その“症状”から辿っていくという“待ち”が大切ですね。

2018.9

理由はいらない。やりたいから”やる”、これ一発

やっと暑さが和らいできて少しだけ過ごしやすくなってきました。

8/26の西谷フェスティバルにストリートワークアウト横浜として鉄棒ブースを出したのですが、猛暑過ぎて危うくメンバーが全滅するところでした。

 

西谷フェスティバルでは、子ども達が元気に何度もプルアップにチャレンジしていました。子ども達を観察していると、よく分かります。彼らは体力があるのでは無く、興味によって突き動かされているということが。

 

これは大変、興味深く、人間の行動は頭では無く”興味”がキッカケになっているということです。

決して、頭が先で”行動”が生まれるのではありません。”対象”に興味が湧き、情動が起こり、そこにブレーキが無ければ行動になるという理屈です。

 

このブレーキが無く、興味によって突き動かされているから、子ども達はひたすら動き続けられるのです。いや、動き続けるのです。

 

この”興味(情動)によって動かされる”ということを(頭が先行する)大人は出来なくなっています。後先を考えていると言えば聞こえは良いですが、単に”行動しない言い訳”を頭が作っているに過ぎず、そういった言い訳を背負って行動するのだから、これを言い換えると”嫌々やっている”状態です。それは疲れるのは当たり前です。

 

 

大人が子どもの様に疲れ知らずで動けないのは、この興味によって突き動かされることが無くなっているという証拠で、言い訳や建前が先行して、何かの理由を付けて動いているということです。

 

 

大人になってから”運動する理由”を持っていませんか?例えば、”健康のため”とか、”ダイエットのため”とか。

 

そんな理由を持っている間は、身体が動くようにはなりません。まずは興味心とは何かを考えて、その感度を磨きましょう。

 

 

興味が無いのに、自分に対して無理やり言い聞かせて行なっても、余計に身体を悪くします。

例えば、前に進もうと“意志”せずに、足で地面を蹴っても前には進むかもしれませんが、ブレーキが掛かって思うように前には進みません。これは疲れますよね。

 

 

逆に、前に進もうと意志して何でも良いから身体ごと前に持っていけば良いのです。そう考えると、意志が先で身体が後からついてくるということが理解できると思います。

 

 

頭を使う大人になると、ここを見失ってしまうのです。行動するときに、何かの理由を考えてしまう人は要注意です。

その行動は、ブレーキが掛かったままアクセルを踏んでいるようなもので、身体へは負担しかありません。もちろん、パフォーマンスが上がる訳もありません。

 

何でも”理由”が無いと気が済まない人がいます。しかし、何かを行動するのに燃料となるのは、”理由では無く情動”です。

この情動を”言葉”にした時点で、それはハリボテのようなものになり、行動にブレーキが掛かるのです。情動のまま動く。これが体力を付ける鍵です。

 

情動は、興味がキッカケとなります。興味のアンテナを磨かないと、興味を持てない”自分”になってしまいますよ。

無興味な自分、それが良ければそれで良いのですが。

2018.8

“身体を鍛えること”と“筋肉を鍛えること”は違う

 

連日の猛暑に少しバテています。糖質を多目に取ると、よく汗が出るようになります。暑いからこそ、糖質と水分を多く摂って汗を流すようにしたら疲れが抜けてきました。疲れが溜まってきている人は試してみてくださいね。

 

今回は、“身体を鍛えることと“筋肉を鍛えること”についてお話したいと思います。

 

私のようにトレーニングをやっていると、「◯◯の筋肉を鍛えたら、◯◯が出来るようになるの?」とか「◯◯の筋肉を付けたら、◯◯にならないの?」と尋ねられることがよくあります。

 

そのような事を尋ねられた場合、大抵、私は「その筋肉を鍛えたり、付けたりしても出来るようにならないし、問題が解消されることはありませんよ。」と応えます。

 

これは、少し考えてみれば分かると思いますが、例えば、上腕二頭筋という腕の力こぶを幾ら鍛えても、筋肉を付けて大きくしても、物を持つこととは関係がありません。

 

その理由は、多くの人が信じている腕の力こぶは腕に付いています。その腕は、肩に付いています。その肩は胸や首に付いています。胸は腹の上にあるし、腹は骨盤の上に乗っています。もちろん、骨盤は脚によって支えられ、その脚は膝や足首、そして足の指によって自立しています。ザックリと言っても、このくらいは腕の力こぶと関係しています。

 

物を持つとした場合に、パッと目につくのは腕です。だから、腕の力こぶを鍛えたら物を軽く持てると因果を結んでしまうのかもしれませんが、“身体全体が複雑に関わり合って”物を持つという運動をしているのですから、いくら腕の力こぶを鍛えても重いものを持つという事とは直接的には何の関係も無いのです。

 

いくら、“部分を鍛えて”も“身体全体が行う運動”とは何の関係もありませんし、“部分の働き”のみで、運動を行おうとすれば、怪我などして身体のバランスを崩してしまいます。

 

私は、こういった質問をしてくる人がどういう思考であるのかを考え続けてきました。

その結果、「身体を筋肉の集合体として見ているのではないか?」という事がわかってきました。もし、そうであるならば、そういう思考を持つ人たちに“身体の機能”を引き出す方法を指導するのは無理なのではとも思います。

 

身体は、全体が関わり合って運動を形成しています。もちろん、内臓も骨も、皮膚や思考までもが身体運動に直結しています。このような事実があるにも関わらず、「◯◯の筋肉を鍛えたらどうなる」と信じている人には説明しても理解はされないのです。

 

身体が全体として万遍なく動くから怪我をせずに気持ち良く調子を上げて行けます。逆に、身体が全体として動くのでは無く、部分的に負担が大きくなれば故障や違和感といった症状が出ます。

 

しかし、多くの人は「運動は苦行」であり、辛ければ辛いほど強くなると信じています。そう信じている人たちに、「全身が協力して動けるようになる、身体が楽に動くよ。」と言ったところで、「そんなウマい話は有り得ない」と信じてもらえないどころか、怪しい話として聞き入れてもらえません。

 

以前、慢性腰痛で何年も悩んでいた人がいました。その人は、私の話す「全身が協力して動く」ことを信じて取り組んだところ1〜2ヶ月で痛みは無くなりました。それから約1年半後にはフルマラソンを完走し、「もう不安は無い」と電話で報告してくれました。

 

もし、読者の方で“運動=筋肉“、”辛い思いをするほど強くなる”という人がいましたら、よく考えてみてください。

そして、少しでも疑問に思ったのならチャンスです。一度、教室に参加してみてください。価値観がひっくり返りますよ。

2018.7

首と鎖骨との関係

 

 

今年は6月中に梅雨が明けて、長い夏が始まりました。

今回は、“首と鎖骨の関係”についてお話したいと思います。

 

まず最初に、首とは文字通り首です。解剖学的にはどうか分かりませんが、私が首として力の流れを感じているのは、鎖骨のちょい下あたりから鼻のあたりまでです。

 

次に、鎖骨とは首の付け根あたりから肩に向かって伸びている棒状の骨です。この骨は、胸骨側から肩に向かってなぞっていくと、途中で折れるように角度がついて窪んでいます。今回の話では、この“鎖骨の窪み”を鎖骨と呼んでみます。

 

この左右の鎖骨が結ぶ線と首の関係によって、身体の出力が決まっていそうです。つまり、鎖骨に首が乗っている状態で動けることで、楽に力が手足から出るのです。

 

しかし、この“鎖骨に首が乗る”という状態を体験したことが無い人もいるかもしれません。腕力が弱かったり、首や肩が疲れやすかったり凝りやすい、たまに息苦しくなったり胸が締めつけられるという人も鎖骨から首が落っこちているのかもしれません。

 

実際に、私が懸垂運動を指導していて鎖骨に首が乗った状態で自由に動ける人はいません。鎖骨に首が乗ると力が出るということを身体が知っていても、出力が大きいその状態の可動域を広げようと直接的に取り組んでいる人がいないからだと思います。

 

もちろん、世界のトップアスリートをyoutubeなどで見ていると、知ってか知らずか、そこを究極的に使えている人もいます。

なにもアスリートだけの話では無く、一般生活を送られている人にも首と鎖骨の話は密接に関係しています。

 

首が鎖骨に乗っている状態になると、呼吸が楽になり、手足から力が出ている状態なので、生活の動作全てが楽に行え、視野が広くなって目が疲れづらくなり、肩凝りや首凝りから解放され、重心が安定します。

そして、鎖骨が使えるようになるので、腕を長く使えるようになり、見た目も腕がスッキリとしたラインになります。肩が上がらなくなっている人の99.9%は、これで解決するのではと思います。

 

どなたでも”首が鎖骨に乗る“状態を体験できるように簡単にご説明します。

 

まず、棒状の鎖骨をなぞっていくと肩に近い箇所に窪みがありますので、そこを押したりつねったりして感覚してください。

左右の鎖骨とも同じように点として感覚してください。そうしたら、その左右の点を結んだ線をイメージします。その線の真上に喉を置き、両鎖骨を結ぶ線と喉を真っ直ぐに引き離します。この状態が、“首が鎖骨に乗る”です。

 

この状態を作って身体を感じてみてください。うまく出来ていると、肩や首の凝り(重さ)が無くなります。そして、その状態で何か物を持ってみてください。もちろん、その状態が崩れないままです。500mlのペッドボトルドリンクくらいが良いかも知れません。それの重さが首では無く、肩に乗るようでしたら正解です。

 

今回の話は、文章にするのが大変難しかったのでコラムにしようか迷ったのですが、多くの皆さんに身体が楽に動かせることや、ちょっとした事で身体の違和感を解消できることをお伝えしたかったので挑戦してみました。

 

普段の生活でも、首と鎖骨の関係を意識しているだけで、首がスッキリし快適に過ごせますので是非やってみてください。

 

この状態で出来る範囲を増やしていく。それが無理なく身体を使えるようにしていく方法です。

教室では、力任せに身体を使うのでは無く、丁寧に身体を発見していけるよう進めています。ご興味がある方はお問い合わせくださいね。

 

2018.6

胴体の四隅を決める

 

半袖のシャツでも過ごせるくらい暖かくなってきました。そうなってくると、夏までに少しでも見栄えのする体を目指して運動し始める方もいるのではないでしょうか?

ちなみにですが、私がそうです。毎日のようにトレーニングをしている私ですが、年がら年中、体のコンディションが良い訳では無く、良い感じにボディメイク出来ている時期もあれば、太ってきて腹回りや脇のあたりが気になる時期もあります。

ちょうど今は、太ってきている時期ですので、そろそろ頑張ろうかなと思っています。

 

今回は、“胴体の四隅を決める“ということをお話したいと思います。

 

胴体の四隅とは“肩”と“ケツ”のことです。この部位は左右にありますので、それらを胴体の四隅と言っています。

 

この四隅を決めるとどうなるかと言うと、胴体からの力がロスせずに手足に伝えることが出来るので、行動が楽になったり、大きな力を発揮しやすくなります。極論を言うと身体の歪みが解消されます。とは言え、歪みを発見するための基準点が肩とケツなので、まずは肩とケツが感覚的に認知できるようにすることが最初の一歩です。

 

普段、トレーニングを指導していても、肩やケツを分かっていない人は意外に多いです。もちろん、目で見ればどこに肩やケツがあるのかは分かりますが、例えば、目を閉じて肩やケツに一切触れずに、そこを動かしてくださいと言っても分からないのです。

 

では、どうしたら自分自身の肩とケツを認知できるようになるのかと言うと、“外部からの刺激”とその刺激によって“実感した感触そのものを意思を持って動かす”ことです。

 

それを基に考えれば、いくらでもトレーニング方法はあるのですが、一例をご紹介します。

 

“外部からの刺激”はツネるです。肩を動かす前に、肩をツネって痛み刺激します。痛みが数秒残るくらいツネると分かりやすいかもしれません。ツネる部位は、“今の自分が分かりづらい部位”です。

 

肩やケツならどこでも良いという訳ではありません。ツネったり触れたりして分かる部位は既に使えています。だから、強くツネってもしっかりと触ってもイマイチ分かりづらい部位を感覚するようにしてください。そして、肩なら肩全体、もしくは任意の一点を意識できるようになることが目標です。

 

次は、“実感した感触そのものを意思を持って動かす”です。

 

ツネられたり触れられた感触を厳密に動かします。ここで気をつけなければいけないのは、見た目にはその部位が動いているように見えていても、意図していない他の部位を動かすことでつられて動いてしまわないようにすることです。

 

これは、かなり丁寧に練習する必要があります。力任せに動かしても、ピンポイントで任意の部位を動かせるようにはなりません。

 

自分の意思とは違う部位が動いてしまうのであれば、それは怪我や故障に繋がるし、疲れやすくもなります。自分が思うように動けていないのですから、動きを覚えるにも時間がかかりますし、得られる成果も変わってきます。

 

ボディメイクの視点から“四隅を決める”を見ますと、筋肉の大きさに関わらず、身体のライン(輪郭)がハッキリします。それは、四隅の存在感が表れることで余計な力みが抜けるので、膨張していた身体がスッと締まってくるからです。

 

ぜひ、肩とケツに意識を置いて生活してみてください。分かりにくいければ、触ってあげてください。感触が明確になったときには身体は変わっています。

2018.5​

身体と自分

昼間はTシャツでも過ごせるくらい暖かくなってきましたが、夜はまだまだ肌寒いです。季節の変わり目は代謝の質も大きく変化するタイミングです。折角ですから、トレーニングを始めて更に代謝を変えましょう。

今回は、身体と自分との関係について考えてみました。

 

よく、「病気や怪我をしたくてしているのでは無い。」というような話を聞くことがあります。理由としてそれに続く言葉は、「仕事が忙しいから」、「家庭があるから。」というような具合です。

 

この話には、二つ考えなくてはならない事があります。

 

一つ目は、病気や怪我というものは潜在的には自分がしたくてしているということ。気から来るのが病気、怪しい我と書くのが怪我です。

 

もちろん、病気や怪我をしたいと“思う”人はいないでしょう。しかし、“潜在的”にという前提に立たない限り、その事柄と正面から対峙することは出来ません。自分の意識に上らない意識、それが“潜在的な意識”であり、自分自身の行動の99%がそれです。

 

潜在する意識の読み方や傾向などについて、ここでは割愛しますが、病気や怪我にとどまらず目標達成などの成功体験についても、良くも悪くも“潜在的な意識”が決定づけており、自分が“思った”通りに事が運ぶ人は、“思ったこと”と“潜在的な意識”が一致している状態であると言えるでしょう。逆に、自分の求める結果にならない事が多い人は、“思ったこと”と“潜在的な意識“がズレています。

 

つまり、自分に起きていることの全てが、自分が(潜在的に)望んだことだということであり、自己実現は既にされているのです。

 

二つ目は、病気や怪我が、たとえ自分が望んだ結果では無いとしても、自分の命(身体)よりも仕事や家庭を優先していることです。

 

ここで考えてみて欲しいのです。仕事や家庭、それらを生きているのは“自分”、つまり、身体です。その身体があるから仕事や家庭を生きることができるのです。その他あらゆることも、自分が生きているから、やりたいことを出来る身体があるから出来るのであり、仕事や家庭のために命や身体を壊してしまうのでは、何のために仕事や家庭があるのか分かりません。

 

もちろん、自分の命や身体など壊して無くなっても良いから、仕事や家庭を優先して、自分自身を疎かにしたいと言うのであれば、それはそれで自己実現されているのですから結構なことです。

 

以上の考え方は、様々なことに置き換えることができます。そうやって考えてみると、自分が本当は何をしたいのか、つまり“潜在的な意識”に気が付くことかと思います。“潜在的な意識”に気が付くことが出来れば、自分の“思う”ように実現していく確率が上がるでしょう。

 

そうなればもちろん、「なりたくてなったんじゃ無い。」と言うことは無くなるでしょうし、行動しない理由を仕事や家庭のせいにはせずに、仕事や家庭がやりたいこととして存在していることを理解できるでしょう。

 

既に“成りたい自分になっている”というところから考えないと、何かのせいや言い訳ばかりの人生になってしまいますね。

 

プルアップパークジムでは、“思う”ように身体を使うためにどなたでも出来る簡単な体操を用いてトレーニングを進めます。

ぜひ一度、体験会に参加してみてください。どなたでも出来る簡単な動作から始めます。身体の面白さに驚かされますよ。

 

 

2018.4

新しいことを“習慣化する”ことについて

花粉のせいでしょうか。鼻呼吸がしづらくて息苦しい毎日です。

トレーニングをしていてもセットを終える度に、水中で溺れているように呼吸困難に陥っています。

今回は、新しいことを“習慣化する”ことについてお話しします。

 

皆さんも勉強やトレーニングだけでは無く、これまでの自分には無かった新しいことを習慣にしようと思ったことがあると思います。そのように新しい習慣を身に付けることによって、自分自身をより良くしようとチャレンジすることは素晴らしいことです。しかしながら、習慣化しようとチャレンジした人が、皆が皆、習慣化に成功する訳ではありません。

 

例えば、「これから毎日、ランニングしよう」と思い立ち、ランニングシューズを買って「さあ、これからだ」と走りに出掛けます。シューズを履き、家を出るまでは何とも言えない“自分に対する期待感”に包まれて、ワクワクとした希望に満ちた面持ちです。しかし、走り始めて数分も経つと、身体の重さや始める前に思っていた感じとは違い、自分を包んでいた期待感が現実感に変わり、ガッカリにも似た何とも言えない寂しい思いをしたことがあるのでは無いでしょうか。

 

「これから毎日、ランニングしよう」と思い始めた時点では、テレビCMなどを観ているように自分自身が素晴らしいアスリートのようにハツラツと汗をかいて爽快な時間を過ごしているようにイメージしていることでしょう。自分がそうなったらと言うより、そうなれると信じきっているので、明るい希望ある未来の自分の姿にワクワクして、最高に楽しく気分が上がっている時です。

 

そして、その生活を手に入れるために、シューズやウェアを手に入れにショップに出掛けます。ショップには、多くの種類が並び、それぞれに細かく異なる特性やそれに合う用途別にラインナップされていて、店員さんに相談しながら自分に合う最高の一品を手に入れて帰ります。この時点ではもう、未来の自分への期待感が最高潮に高まり、全てを手に入れたような気分になっていてワクワクが止まりません。早くランニングに出掛けたいと、夜も寝付けないことでしょう。

 

ここまで来たらもう、ランニングを始める準備は完了です。あとは毎日走るだけです。

なのに、上記したように期待感が現実感にガラッと変わり、当初のワクワクが消えてしまうのは何故でしょうか。そして、三日坊主と呼ばれる“習慣化することに失敗”した結果に終わることも少なくありません。

 

どうして、そんな事になるのかと何度も悩んだ末に私が発見したことは、習慣化するための初期設定のハードルが高いということです。私は、習慣化に失敗するごとに初期設定のハードルを下げました。そうすることで、習慣化するに至らなくても長く続けられることに気が付いたのです。

 

普段、ランニングをする習慣の無い人が最初から1km6分ペースで3kmを走ろうと初期設定しても、それは苦痛の方が大きくて楽しむ余裕はありません。習慣化するコツは、その初期設定を徹底的に下げると言うことです。それも、これではやる意味が無いのではと思ってしまうくらいに設定を下げるのです。ランニングで言えば、「とりあえずシューズを履いて玄関から出る」とか「200mくらいを歩く」など、何の役に立つのか疑問に思ってしまうくらいに下げるのです。

 

シューズを履いて玄関から出るだけなら1分で済みます。200mを歩くだけなら3〜4分です。それを毎日、繰り返すのです。この“繰り返す”ということが出来ない人は、この行動に対しての価値イメージが低いだけですので、こう考えてみてください。この最低限の行動、例えば、玄関を出るだけを1週間続けられたら、その次の週は屈伸運動や準備体操をして、更に次の1週間は歩いてみる等、少しずつ行うことが増えて、3ヶ月も経ってしまえば、最初からは想像も出来ないような姿にすっかり変わっていると。大切なのは、内容では無く、行動することです。

 

行動できないのあれば、出来るところまで、いや、簡単過ぎてやる意味があるのか疑うところまで内容設定を下げれば良いのです。習慣化できれば、自動的成長行動としてライフスタイルに自然に組み込まれます。

プルアップパークジムでは、どなたでも取り組めるように内容設定を個別に行いながらトレーニングを進めます。

ぜひ一度、体験会に参加してみてください。どなたでも出来る簡単な動作から始めます。

2018.3

年齢に影響されずに動くには“背骨”を使う

寒さも和らいできて過ごしやすくなってきました。

ジムの前を通学路にしている子ども達が、いつも学校帰りに元気な声で「こんにちは」と声を掛けてくれます。少しずつお兄さんお姉さんになっていく子ども達とのお喋りを楽しんでいます。

 

今回は、身体を動かす上で大切な“背骨”を使うことについてお話しします。

 

皆さんは、「背骨を使う」と聞いてどのように思うでしょうか?あまりイメージが湧かないかもしれません。身体を動かすのは筋肉であり、“立つ”という動きで例えれば脚腰の筋肉を使って立っていると思うかもしれませんし、“物を持つ”という動きであれば腕の筋肉で物を持っていると思うかもしれません。

 

しかし実際は、脚や腕の筋肉が“使われている”ことは勿論ですが、あらゆる動きは“背骨”が使われていることによって成立しています。ですので、背骨が動かなくなってくると身体は動かなくなります。

 

例えば、運動能力が高い人の背骨はよく動き、身体を動かすことが苦手であったり疲れやすい人の背骨は動きが悪いです。そして、赤ちゃんや子どもの背骨は柔らかくよく動きますので様々なことを上達しやすくなっていますし、大人に比べて怪我をしにくくなっています。しかし、歳を重ねるごとに何か新しい運動が上達しにくかったり、怪我をしやすかったり、疲れやすいのは“背骨”の動きが悪くなってきているからです。

 

さらに、同じ動作を繰り返してばかりいると“背骨”は、それを繰り返すように“癖”がついてきます。そうなると、新しい動作を取り入れようする気も起こらなくなり、更に“癖”が増長されてしまうのです。

 

“癖”が強くなればなるほど、新しい運動や身体の使い方に目が向かなくなってきますので、まさに心身共に動かなくなっていくのです。もし、疲れやすかったり慢性的な怪我をされている方は、“背骨を使う”という視点を持ってみてください。

 

では、“背骨を使う“とは具体的にどうすれば良いのか。それは、とても簡単で誰にでも出来ます。

壁に寄りかかって立ち、“背骨と壁の接点”を上に下に移動させて、それを繰り返します。

 

この時の注意点は、壁と背骨の接点を背骨24個あるうちの1つだけにして、それを丁寧に“感じる”ようにします。それを上に下にと出来るだけ大きく移動させて、背骨が動く範囲を大きくしていきます。首の付け根あたりから仙骨と言われる肛門のすぐ上くらいまでを辿ることを繰り返して、背骨の“線”を実感出来るレベルまで行います。

 

この動作を繰り返していると背骨の動きが悪い箇所を発見すると思います。そうしましたら、その動きが悪い箇所周辺だけを行ったり来たりすることで少しずつ背骨がほぐれて動くようになってきます。

 

この運動に大切なのは、“背骨を感じる”ということです。壁に触れているので感じやすくはなりますが、“背骨を使う”という視点を持ったことが無い方は感じにくいかもしれませんが、繰り返しているうちに日々、明確に感じるようになってきます。

 

まずは、1日に20回程度行うだけでも、早ければ3〜4日で身体を動かすのが楽になるでしょう。やり方が悪かったりすると、思うように背骨は動いてくれませんので個人差はあります。その時は、直接お尋ね頂ければアドバイスを差し上げますので、お気軽にお声掛けください。もちろん、メール等でも結構です。

 

これまでの身体の悩みが“背骨を使う”という視点を持つだけで解消されるかもしれません。

ぜひ一度、身体操法体験に参加してみてください。体操は、どなたでも出来る簡単な動作です。

2018.2

“なぜ?”によって身体は動く

例年に無い厳しい寒さが続いています。

この時期はあらゆる事が内側に向かう力が働きますので、考え事をするには最適ですが、考える“仕方”によっては良からぬ方向に向かってしまうこともあります。今回は、「“なぜ、そうなの?”と疑問を持つことと身体との関係」についてです。

 

私たちの日常では、あらゆる事柄が当たり前過ぎて、“なぜ、そうなの?”と深く疑問を持たずに鵜呑みにしていることが多々あると思います。“鵜呑み”にしているということすら気が付かないことがあります。

 

例えば、運動神経という言葉です。実際は、運動神経という神経は無く、この事は“意図しことと肉体(運動)を結びつける精度”を指しているのだと考えられます。

 

「運動神経」という言葉では意味不明だったことが、このように構造的に分解していくと具体的になり、それを改善する行動に繋げられます。しかし、「運動神経」という言葉では何を言ったことにもなっていないので具体的な改善行動が出来ず、ただ「運動神経が悪いからなんだ」と諦めるしかありません。「鵜呑みにするということは諦める」であり、そこに「なぜ?』と疑問が湧き、自分自身が“思わず行動に至るまで”紐解く作業が“身体を動かす”のです。

 

また、私は12年程前に、重度の頚椎ヘルニアにより左半身が少々不自由になりました。

この時、私はプロスポーツ選手が行くような病院を幾つか受診しましたが、どこの病院でも「即手術が必要で、2度とこれまでのように激しい運動は出来ない」と言われました。更に、「これだけヘルニアが出ているのに痛みが無いのは理解出来ないが、いつ痛みが出てもおかしく無いので出来るだけ早く手術をした方が良い」と受診した全ての病院で言われたのです。

 

しかし、私は手術をすることに疑問でした。自分自身でそのような症状を作り出すことが出来るのであれば、その症状を無くすことも自分自身で出来るのではないかと思ったのです。そして、その症状を作った自分を変えずに、手術で症状を取り除くということは、「症状を作り出した自分を変えない限り、また同じような症状が遅かれ早かれ出てしまうだろう」と考えたのです。

 

そうして、それまでも“身体操作”を研究してきていた私は、またイチから“自分の身体を実験材料に”試行錯誤して治るための研究を続けました。少し時間が掛かりましたが、ヘルニア症状が出る前のようにバリバリ運動出来るまでに約4年掛かりましたが、あれから12年経った現在はトレーニングサークルを立ち上げて、これまでの経験から学んだことを生徒に指導するにまでなりました。

 

子供の頃から運動神経が悪いと言われて、頚椎ヘルニアにより二十代半ばで左半身が不自由になり再起不能となった私がここまで来れたのは、世の中の常識では“奇跡”と言えるでしょう。しかし、私はこの事を奇跡とは思えません。なぜなら、一つ一つがタネも仕掛けも有り、それを一つ一つ紐解いてきたからです。タネも仕掛けもあったのです。

 

その入口は、“なぜ、そうなのか?”という疑問に引っ掛かったことでした。

多くの人が、“なぜ?”という疑問が自身に引っ掛からなかったが為に、諦めるしか無い状況を見かけます。

 

“なぜ、そうなのか?”という疑問に向かうだけで身体は変わっていきます。

そこに年齢や運動神経、怪我などは関係ありません。もちろん、センスもです。現状から一つでも良くなれば良いのです。

 

“なぜ?”と疑問だらけの“身体の使い方”を体験できる身体操法教室を一度体験してみてください。

体操は、どなたでも出来る簡単な動作です。

2018.1

“体幹”とは、何のこと?

新年明けましておめでとうございます。

今年も、身体の“質”や見た目を変えたい方と沢山出会えることを楽しみにサークルを盛り上げていく所存です。皆さん、どうぞよろしくお願いいたします。

 

新年一発目は、“体幹”についてです。

 

サッカーの長友選手が体幹トレーニングの本を出してから、“体幹”という言葉が巷に出回って久しいです。世界の超一流スポーツ選手が言うのだからと、そのトレーニング方法を実践すれば、「何かが良くなる」と思っている人は多いと思います。

 

“体幹”とは「どこ」を指していて、それを鍛えると「何が良くなる」のかについて、ここで一つ考えてみましょう。

まず、「どこ」についてですが、書籍や多くの人の話を聞くと、どうやら鳩尾から股関節までの腹部のことを指しているようです。そして、それを鍛えるために有名なのが、プランクという「肘をついた腕立て伏せの姿勢となり、体幹が弛まないように固めて、その姿勢のまま耐える」というトレーニング方法です。

「何が良くなる」については、体幹が強いと「動きにブレが無くなり、安定した動作ができる」ようになるようです。

 

しかし、少し考えたら分かることですが、「弛まないように固める」ことをトレーニングするということと、「動きにブレが無く」ということは矛盾しています。そもそも、身体のどこかに緊張があれば、それにより「動き」そのものがスムーズに行われなくなります。つまり、本当に体幹を固めたら動けなくなってしまうということです。動かないのであれば、後段の「ブレが無くなり、安定した」という部分はある意味その通りです。動かないのであれば、スポーツなどの動作としては有り得ません。私は、プロスポーツ選手が言う“体幹”とはこの事では無いのではないかと考えました。

 

“体幹”とは何かの問いの答えは“背骨”です。人体にとって、まさに幹となるのが背骨です。その背骨を使い切ることが、“楽に”、“大きく”、“強く”、“早く”、“美しい”動作を支えているのです。自由に動けるようにするためには、決して身体を固めてはいけません。もちろん、固まって身動き取れないようにしたい人は、自己実現できているのですから、それで良いです。

 

背骨を使えるようになると、“全身が協力して動く”ようになり、身体そのものの重さが消えて、日常生活でも楽に過ごせるようになります。

 

“体幹”だけでは無く、「◯◯に効く」のような巷で出回っている“言葉”について疑問を持っている人は、“身体の使い方”を体験できる体操体験を一度体験してみてください。

 

2017.12

トレーニング以前の“身体”に目を向ける

健康のため、体力づくり、ダイエット、気分転換、人によってワークアウトを生活に取り入れる理由は色々です。しかし、それゆえに“ワークアウト”と聞くと、「私はそれほどハードにやりたい訳ではない」とか、「私はスポーツの成績を上げるために、やれるワークアウトは何でもやりたい」、もしくは「趣味としてワークアウトをしたい」といった動機も様々です。

自分が“どうなりたくて”ワークアウトをするのか、目標を持つことは大切です。 しかし、目標を持つことと同じくらい大切なことがあります。 それは、“自分の身体が目標を達成できるポテンシャルを持つ“ということです。

どういうことかと言うと、多くの人がワークアウトやスポーツを始める時に、自分の身体が思い通りに使えることを前提にワークアウトやスポーツの専門動作を練習しますが、その動作を行うための “身体の条件”を備えているかどうかについては、多くの人が放ったらかしのままワークアウトやスポーツを行います。その結果、スムーズに成長できなかったり、すぐに疲れてしまい、怪我をしや すくなったりして、最終的には、“歳のせい”、“私には向いていない”と思い込んでワークアウトやスポーツから離れていきます。 しかし、それは大変もったいないことです。“身体の可能性”をほとんど引き出さずに、やりたかった ことを諦めているのですから。

“身体の可能性を伸ばす”、もしくは、“怪我や障害を軽減する”ためには、身体を操るという意味での “体操”をする必要があります。

“体操”はワークアウトとは違います。 ワークアウトは身体を鍛えますが、体操は身体を使えるようにします。

まずは、“体操”で身体を使えるようにして、“ワークアウトやスポーツ”で効果を上げるといった順 序で成長します。

この2本柱で、ワークアウトやスポーツを行うことで、専門動作の習得スピードが上がったり、疲れ にくくなり、怪我をしにくくなります。さらには、ワークアウトやスポーツを楽しく感じるようになるので、 諦めたり、三日坊主になりづらくなります。(もちろん、個人差があります。)

ワークアウトをすることが難しくても「体を操る“体操”」は、怪我をしていようが、歳を取ろうが、これ まで運動習慣が無い人でも、気軽に行えるものす。

2018年を、健康に過ごすためにも、“体操”を是非、一度体験してみくださいね。

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